家柄人筋となる改まり



昭和43年6月24日 朝の御理解


X御理解 第78節 神の機感にかのう氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、又大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。

 まあここまでを頂いてみますと、神様の機感にかのうた氏子が少ないと、それには身代と人間と達者とがそろうて、しかも三代続いたら家柄人筋となってというところね。それが神の機感にかのうたのじゃと、こう仰っしゃる。家柄人筋というのが出来てくる。ね、あっちは家柄がいい、人筋、人筋というのは何と申しましょうかね。あっちはもう不精者過ぎる、仕事嫌い、そうゆう事をもうしますですね。人筋とはそういうような事、まあ色々な筋がありますよね 。あっちは何に何にとい病気の筋じゃと、ね、悪い病気なんかがもう代々続くといったような事、何ん何にの病気の筋があるとこう申しますね。あすか筋が悪い。
 それがね、良い家柄、良い人筋になる所に仰っしゃっておられますね。ですからもうここん所は三代続いたらという、いつの間にかでしょうけれども、結局その初代というかその一代を受け賜る、いはば私達ですね、が、どうでもここの所を頂かなければならんという事がわかります。これはもう自分方の家風だから、いい家風ならいいです、それが家柄人筋になるほどの、まああ家風であったり人筋であれば問題ないのですよ。ね、けれども信心を頂いておる家としては不向きなというですかね、信心の家庭にはどうもおかしいという家風ですかね、様々の筋があります。
 そういう意味あいで例えば、あの金光家なんかの場合ですね、はじめからあのような立派な家柄人筋じゃなっかたと、もういうならもう本とに名もない、もう名もない一農民であられたという事。それがあのような家柄と、ね、もう金光家といえば、まあ私共金光様の信心をさせて頂けば、金光家一門の方達の人柄人筋を、まあ私共中に立ち入ってみませんけども素晴らしい感じがします、ねえ。それをやはり教祖の神様がちゃんと作っておいでられる。
 例えてゆうと、まあその当時のそのお百姓さんですから、やっぱり百姓風に、ね、言葉ひとつでも、まあいうなら百姓言葉でおありになっただろうと思うんです。けども教祖は家族の方達にでもそんな事でも、非常に厳しくしつけをしとられますですね。名前を一つ呼ぶでも「あなたこなたと言うて」と言うておられます。ね、それまでは、だからそうじゃなかったという事がわかりますよね。「おい、こら」と言うような呼び方をなさておったかもしれません。いわゆる汚い言葉とでも申しましょうか、ゆうその、それを言わばよそ行き言葉に改めておられます。ね、「あなたこなた」と言えばこれは、よそ行き言葉です
 そういう風にですね、もう初代、私共が改めなければいけんです。でないとほら、何時までも三代つづいたらという事にならんのですよ。ね、
 ですから金光様の御信心を頂いている者の一つの家風というものがですねえ、何処までも実意丁寧を旨とした家風がねまず出来なければならない。もうこれは長年俺達の習慣だからといったようなものがです、ね。例えば「身代と人間と達者とが」と仰言る、人間という事についての、ポイントになる所ですからね、信心さして頂きよったら、内々たとえば話し合うでも、まあいうならろくそな言葉やらはつかわん。まあいうなら、あなたこなたと呼ばしてもらうようになる、これは言葉だけではない、態度もね、言葉もおんなし事。勿論人間というのは心ですね、人間ができなとこういう。例えて言うなら家柄人筋となってとこう言う。
 これは、まあ私の母の家柄人筋というものを、家柄なんていうものじゃないですけれども、なんとはなしにですね、なんとはなしにその、不精うもん筋なんですよ、私の方は。ご承知のように私の方の母の方は、非常にこのなんとゆうですかね、もう自分を犠牲にしてでも働くとゆう筋なんです、浮羽郡の麦野の出ですがね。この大坪の家はそうではなくてですね、もうほんとうに今から考えてみると夕方なんかでも、もう、朝はゆっくり寝てから、そして夕方は早く仕事切り上げて、例えばこうゆう今頃の時期にでもなると、もう夕方早よう、もうご飯を頂いて、お風呂を頂いて、農家の方達はまあだ、その野良着でまあだ帰りよんなさる時分には、もう夕ごはんどん頂いとる、ね、父はもう晩酌どん頂いとる。たまにゃ三味線どん音どんが聞こえよる、とゆうような家柄だったんですね。私の家のほうは。そしてどうかとゆうと晩は夜更かしをするとゆう、そうゆう家柄だったです。ね、朝は遅い、夕方は早よう仕事やめて、そして早よお風呂に入って、早よ夕ごはんどん頂いて、ね、そしてどうかちゃ、こんだ夜の方は、こんだ夜更かしをして、くだらん時間を過ごしておる、だからあくる朝が起きれないというのもあたりまえ。
 私はねえ、こうゆう様なところがねえ、もう例えば私どもの場合、ま切羽詰まってからじゃございますけれども、朝早起きしなければ出来ない、晩たとえば夜更かしするでもそれが信心の夜更かしというような風に段々こうかえられてまいりましてね。今でもその風がここには残っておる、どうも夜更かしの風があるです。11時からでもお風呂に入ろうといったような、改められないのですね、まあ言いよるんですね。これじゃいかん、こんなこっちゃいかんと言いよりますから、本とにも少しきちっとした。それがね私の時代に改められておかんと二代に持ち込むことができんのですよね。
 皆さん、これはですねどうでも、ここん所の一番最後にですね。「無事達者子孫も続き身代もでき一年まさり代まさりのおかげが受けることができる。」と仰言る、こういうお蔭を頂く為(笑)ですから。どうでもここん所をですね、あの読みすごさずに本気で頂かなければいけないなと私は感じました。
 だから良い筋ならいいですよ、家柄人筋という、ね、けども言わば良くない筋。そういう例えばひとつの銘々の内にひとつの家風というのがございますですね、そういうものが段々改められて来てです、人間が二人見るように変わるように家の中もですね、別な家を見るようなです。信心のなかった時代から信心のある時代に移ったら、もう二軒の家を見るように私は変わらなければいけないと思う。まあ、ろくそ筋というのがありますね、もう何というですか整頓が全然してない、実意丁寧というような事がモットーとなればこれはどうでもやはり、整頓なんかはさしてもらはなければならない、例えばろくそーなとこで育ちますとですね、ろくそーな事が当たり前になってしまうとですよ。
 ですからやっぱり私はまあ形の上の事でございますけども、そういう様な事柄がね、まず言わば「身代と達者とが」私共の求めておるお蔭であり願いであるならばです。まず何というても人間ができなければならないという事、勿論これは内外共にですから、勿論心が【 】ね、人間の内容が充実してくる、人間がでけなければなりません。形の上の事においてはです、例えばあの教祖様は、ね、今まではどこもここも、さほどに変わらんお百姓さんでおありになりましたから、言うならお百姓ふうに、又お百姓、あのそれからね教祖様の、金光大神を拝見いたしますと物売りやら来ますね、物売りが来ますとね。物売りが来たらね、もうそれを必ず断らずに買えと言うとられますね。折角売りに来たとだから、まあ多少でも、折角来てもらったのだから頂きましょうというて買うておけとこう。
 とゆうようにですね、家の中を改めておられますね、人間もですけれども家のなかの家風というものを作り変えておられます。言葉使いにおいてでも今まで百姓言葉であったのをですね、であったと思わなければなりません、そういう風に言うとられますから。あなたこなたというふうに呼び合えとこう仰言る。ですからほんとにそういう所に信心させて貰うとまず心掛けなければ、心掛けなければいけないということが分かりますよね
 その人間ができんなりに例えば身代ができ又は健康がでけてもですね、これはもお何とは無しに浮いたようなものになりますよね。身代なり、又は達者が。なんと言うてもそれを受け、それを使い、又それをこなすものは人間ですから、家ですから。人間がまず変わらなければならない。これはこうやって御理解頂いておりますから、これはもう早速実行に移られることですからね
 私のあたりが、だいたいはろくそ筋ですから、もう呼び捨てに呼ぶんですね。いわゆるあなたこなたに中々ならん。けれどもそれはね、やはり家柄人筋というものを作る為にもですね、私はここん所のお蔭を頂かなければいけんと思うです。まあこれは他の【 】よそに行っておもわぬ恥ずかしい思いをしなければならん事がありますね。中々よそゆき言葉がひょうひょう出てくればいいけども、他所いったちゃ、よそゆき言葉で言うたっちゃ子供には通用しないといったような事がある。そりけん、とにかくおかしい事になるんです(笑)。これは例えば一番改めよいことですからね、改めようと思えばすぐ改められることです。しかもそれが段々人間の内容が出来てくるにしたがって、それが身についてくるというかね。何とはなしにそれがほんとに家柄になってくる、そうゆう例えばひとつの基盤というものをですね、いはば三代続いたらと仰言る、その私共が初代を承るわけでございますが、そういうひとつの風というものをね作っておく、そういう私は努力がひつようだとこう。
 神の機感にかのうた氏子にならせて頂くために、同時に私は人間の内容です。例えば仕事嫌いであったのが、仕事をさせて頂くことにほんとに楽しみとか喜びがいただけれるような内容、勿論心の状態が信心者としての内容というものがまず出来て、私は身代と達者とが頂けるものだと思うのです。ほんとの意味でね。
 中々一遍には出来ませんでも、そういうひとつの、中々出来ません、中々出来ませんでもやはりそこに一つの、こういうふうに改めていかなければならんと皆が、それを努力しあうことだけでも効果的です。言わばお里が知れるという、「ああ昔が昔じゃけん」とこう言うね、これではですねやはり二代三代に残されない。今たとえば金光家の方達を見てもです、昔お百姓さんじゃたじゃろうといった様なものは全然感じられないでしょう。まあだ今は三代、現代で四代目の教主、教主様が四代ですかねえ、四代目にあれだけほんとうに信心の雰囲気というものを身につけられて、家庭の中には家庭の中に信心者の家庭としての、きちんとしたものが家にそれが残ってきておる。それを教祖の神様が次第に改めておられるから、だから、「もとをとって」というのはそういう所のもとをとって、というのがある。本気でこの辺の所をです、改めさしていただいて、まず人間と達しやと身代というのが、私共の時代にまず頂けなければならないという事。子供の代じゃない、孫の代じゃない。そりゃ代勝りにお蔭を頂いて参りましょう、けれどもです、貧乏なら貧乏が子供に残されたんじゃだめなんです。借金が【 】残されたんじゃだめなんです。
 ですから私共の時代に、その貧乏なら貧乏というのを卒業してです。為にまず人間が出来なければならない、また家柄人筋というものがです、改められなければならない。そこに私は頂かしてもらう健康、健康もだから私共一代で皆が健康のお蔭。例えどういう病気の筋はだがありましてもです、その筋が切れなければいけん。
 昔はよく言いましたよねえ、あのあそこは肺病筋とかね、癩病筋とかと、あの筋なんですよ、そういうことなんです。そういう筋がねえ私共の代に消えなければいけんのです。 それにはどうでも一つ本気で人間が変わらなければお蔭は受けられせん。なんと言うても人間が中心、そしてそれが家にその雰囲気というか、家柄というものが段々高められて来る。それでやはり努力がいる。私の方はどっちかというたら、不精者筋だけれども、私の時代でこの不精者筋というものを切ってしもうとかんとですね、その不精者筋が子供に又残る。
 それではいつまでたっても筋が切れない訳です。三代続いたらといったような事になってこない、そこを私共は新たな信心の教えによってです、ね、信心の教えによって導かれてここん所を改めてゆくという、まず一つ私共の態度とか言葉使い、そうゆう中にですね実意が溢れる私は、言葉使いというものはその人柄というものがやっぱり滲み出て参りますよね。
 ですから改めようと努力しよったら初めはおかしいですよね、けれども改めて参りますと、それがやっぱりいいことになる。父ちゃんと言いよったとが、お父さんと言うだけでもちょっと始めはぎごちない。ですけどもやっぱその所は本気で改めていく、そしてやはり何とはなしに慇懃な家庭というものが出来てくる。信心者の家庭としての実意丁寧な態度言葉と言ったものがまずのぞまれる【 】内容は勿論の事、人間がいよいよ変わって行く、それはまあ言うならばですね、私共に様々な筋がありますように、不精者筋ということ申しましたがね様々な筋があります。自分方にはこげな筋があるということが分かったら、気づいたらですね、それを本気で私一代の間にこれだけは切っとかないかんという努力をさせて貰うて、それが初めて次々と子供に孫に、所謂三代続いたらという、いうなら神の機感にかのうた家柄人筋というものが出来上がっていくのです。
 そして神様の大恩が分かってゆく、そこから無事達者で子孫も続き身代もでき、しかもそれが一年勝り代勝りのお蔭を受けることが出来ると仰言る、元を私共がどうしても作らなければいかん。それにはまず一つ簡単な所からね、改めよう、ね、どうぞ今日はそこの所を特に教祖様がおっしゃておられる、家族の方に言うておられる、あなたこなたと言うてといわれるような所をですね改めて行きたいですね。どうぞ